
緑深き箱根の森に、レンガ色の屋根と白い壁がくっきりと映える。目前には澄んだ芦ノ湖が開け、彼方に雄大な富士山を望む。壮大な景観に見事に溶け込むその様相は、一幅の絵の主役であるかのような気高さと気品を漂わせる。
三菱の礎を築いた4代目社長・岩崎小彌太の別邸として誕生してから、現在の「小田急 山のホテル」となるまでほぼ100年。約45000坪の敷地に佇む湖畔の館は幾度の災難を乗り越えて生き延びた。
明治44年(1911年)、小彌太の別邸は、別荘は海辺に建てるものとされていた当時の風潮をよそに、
箱根の高原に構えられた。小彌太の父・彌之助は、旅したスイスの景観に見惚れたことから、箱根を「日本のスイス」にすることを夢描いたという。
父の思いを受けて建てられた小彌太の別邸は、完成してわずか1年で火災に見舞われ焼失する。後に、日本の西洋建築の祖とも言われるジョサイア・コンドルの設計で、石造りの2階建ての洋館として生まれ変わるも、大正12年(1923年)の関東大震災によって全壊した。2度の不運にも屈せず、翌年には再建。以後、茶室や和館、クラブハウスが増築され、多くの来客がここで優雅なくつろぎの時を過ごした。
父の思いを受けて建てられた小彌太の別邸は、完成してわずか1年で火災に見舞われ焼失する。後に、日本の西洋建築の祖とも言われるジョサイア・コンドルの設計で、石造りの2階建ての洋館として生まれ変わるも、大正12年(1923年)の関東大震災によって全壊した。2度の不運にも屈せず、翌年には再建。以後、茶室や和館、クラブハウスが増築され、多くの来客がここで優雅なくつろぎの時を過ごした。
昭和23年(1948年)、小彌太の別邸は、国際観光(現・小田急リゾーツ)に買い取られ、「山のホテル」としてオープンする。男爵が全国から集めた30種を数えるツツジが植わる庭園に、紺碧の湖、雄大な富士。絶佳の景観を誇る邸宅はホテルとしての魅力にあふれていた。一流企業の社長一家や政治家などを贅沢にもてなし、銀幕のスターや画家など多くの文化人を魅了した。
昭和53年(1978年)、老朽化のために建て直されたホテルは、スイス・レマン湖のほとりに建つ古城をイメージして生まれ変わる。箱根に「日本のスイス」を思い描いた男爵の夢に一歩近づいた瞬間だった。
昭和53年(1978年)、老朽化のために建て直されたホテルは、スイス・レマン湖のほとりに建つ古城をイメージして生まれ変わる。箱根に「日本のスイス」を思い描いた男爵の夢に一歩近づいた瞬間だった。
「人にやさしく、自然にやさしく、都会で疲れた体をやさしく癒すホテルであり続け
たい」。その精神は、男爵が日頃の重責から解き放たれ、心と体をゆっくりと休め
自然と戯れた場所であった当時から、今も変わらず受け継がれている。
たい」。その精神は、男爵が日頃の重責から解き放たれ、心と体をゆっくりと休め
自然と戯れた場所であった当時から、今も変わらず受け継がれている。
昭和24年(1949年)に建て替えられた本館。片流れ屋根のしゃれた建物に生まれ変わった。
「HôTEL DE YAMA」とフランス語で名付けたのは画家の佐野繁次郎氏
「HôTEL DE YAMA」とフランス語で名付けたのは画家の佐野繁次郎氏























